法に則ったことだけ

神は居ない、と思っている。

 

神社にも寺院にもお参りにはいくし、お願いをすることもあるし、お礼をすることはあっても、神は居ない、というのが私の持論。

 

理由はここでは書きたいことではないので割愛するが、そういう訳で基本的には無宗教である。

 

父も母も、よく分かっていないまま、人に頂いた(?)お仏壇を自宅にずっと据えて「南無阿弥陀仏」を唱えているが、どこかの檀家でもないし、多分宗教の違いとか慣習も分かっていない。

ただほとんどそういう人だと思う、日本人て。

 

私は一時期宗教というか、仏教全般にハマっていたことがあり(単なる知識面)、それなりに知ってはいるし、他の宗教と比べても仏教の方が好ましいと思ってはいる、が、それと檀家になったりすることとは違い、特定の宗派に傾倒するつもりもなく、また、そういった宗教儀式も(個人的にはこれまでお盆ですら。今後は心持ちは変えるが)正直やる必要性も感じていない。

 

今回、母が亡くなったが訳あって直葬である。

(なので、エンゼルケアだけはやった)

この直葬にした理由などは今はブログには書かないが(とりあえずはお金が無いということにしておく)、基本的には、火葬しなければならないという日本の法に則ったことまでは行うが、今後は宗教儀式的には何もしないつもりである。

 

何もしない。

主には49日法要、そして○周忌法要などだ。

 

また、49日までにしてはならない禁忌的なことに「神社へのお参り」があるそうだが、私は翌日に近くの神社へ参拝した。

まぁ向こう(神様?)にしたら、来るなって思われてるのか知らんけど、、

 

ずっと私はこの7ヶ月間、何度もお願いや報告、自分の気持ちの吐露のために、その神社へお参りしてした。

朝起きるのが遅い両親を横目に、散歩がてらコンビニで朝ご飯を買ってお参りしてから、その朝ご飯を境内の端のほうにあるベンチでしてきたのだ。

私の唯一の至福というか、許される自由時間だったから。

 

朝ご飯をしている間に神社へ来る人はほとんどなく(多くて二人とかで、パッとお参りだけして立ち去る)、私のようにゆったりと神社で過ごす人なんて居なかった。

 

母が医者に「桜が見れる時期までもつかどうか」なんて言われたが、その桜も見たし、桜が散って青々とした5月の新緑、そして紫陽花が咲いて散って…

そんな様子と共に過ごしてきた。

 

こんな風に、この自分の生活に密着してきた神社に、報告やここまで見守ってきてくれたお礼に来ない方がおかしいと思ったから、翌日にいつも通り朝ご飯を持って神社へ行ったので、文句言われる筋合いないなぁ…と勝手に思っている。

 

それらの宗教儀式は一切しないが、お花は欠かせないようにだけはしようと決めている。

最低でも月命日だけは。

 

父は多分最初のうちは色々とやるのに熱心も、段々とやらなくなりそう…という家風(?)だが、私は何か、母自体(身体?)が居なくてもずっと居る感じがしていて、それはずっと変わらなそうな気がしている。

 

多分ずっと一緒には住んで来なかったことも理由かもしれない。

別に一緒に暮らしてなくても、みたいな感じで、電話かけたら(通じないが)話せるんじゃないか、みたいな感覚。

 

なので、そういった宗教儀式はやらずに、これからも生活の一部として、母のことを思い続けていこうと思っている。